サークラ概論

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キルケゴールにおける宗教的主体論

キルケゴールにおける宗教的主体論

 

 「キルケゴール」とGoogleで検索をかけてみると、真っ先に「実存主義」といったワードともに検索結果が表示される。一体「実存主義」とは我々の生活、生き方にどういった影響を及ぼし、その思考にどれだけの人が依存し、また生き方を変えることになったのだろうか。

 詳しく知るために彼の主張や考え方とともに宗教的主体論を追っていこうと思う。

 

 まず、彼の思想についてだ。彼の思想は、生本来が持つ意味を探るというよりも、いかにして自己を意味のある自己足らしめるかを現実の中で探る哲学である。そして彼自身その答えを真のキリスト者になることと見出している。故に、キルケゴールの哲学とは、いかにキリスト者となるかということを追求した哲学である。

 彼の思想における真理とは、「主体性」にある、とされていることが多い。そのために、「客観性のうちに真理を求める」ことを否定する。故にその真理が客観的に認められるものであるかどうかは問題とはされず、自分自身において「真理」とされればそれが真理なのであるという論理である。これをわかりやすくすると、「他人の言葉に正しさを求めるものでない、自己自身の言葉を正義と為すのではないか。」といった一文になるのではないであろうか。

 ここで彼の代名詞である「実存主義」に触れてみようと思う。「実存」とは、《existence》スコラ哲学で、可能的存在である本質に対し、実現された個体的存在。現実的存在。実存主義で、特に人間的実存をいう。独自な存在者として自己の存在に関心をもちつつ存在する人間の主体的なあり方。自覚存在。(大辞泉より)とある。これを先ほどのように噛み砕くと、「『実存』とは、『今ここ』を生きている自身のことであり、それを本質よりも重要視する考えは実存主義と呼ばれる。実存主義における課題はキルケゴールのようなそれであり、すなわち「いかにして今を充実させて生きるか」という点にある。」といったものになると言えるであろうと自分は考える。そうした中で、彼は実存主義の創始者、そして実存主義における代表的存在に成り得たのだ。

 

 その「実存」といった哲学的問題について、彼は3段階に分けられると考えた。

第一段階は、「美的実存」と呼ばれているものであり、この段階において人は、快楽を味わいながら充実を得ようとする。肉欲や食欲といった本能的な欲望から、あるいは現代的な例にはなるがマッサージ店で受けられる1時間1500円のマッサージ店のサービスのようなものあったり即物的な欲求の全般である。欲望を満たすにつれまた新たなる欲望が湧き出てくるという循環を繰り返していくうちに、段々と欲望の解消から得られる快楽の弱体化や倦怠感といったものから飽きが生まれてくるのである。(覚せい剤の乱用から生まれる元の使用量だと足りなくなる症状と似たようなものであろう。)

若しくは、既にその欲求は解消されており充実感を満たしているものの、たとえばいつ喪失するか分からないもの(自分が獲得した地位や金銭)といったいつなくなるかわからないものを喪失する不安もつきまとうようになる。そのような状態に陥り、人は実存の次の段階へと移行するのである、と彼、キルケゴールは語っている。

 そしてその第二段階は、「倫理的実存」である。

第一段階は欲望、すなわち自身の外に対して欲求が生まれていたが、これは自身の内部に動機を持ち能動的に行動し、充実感を得ようとするものである。動機を持つというのは、言い換えれば主体性を持つということにもなるであろう。そして、その動機となるのが倫理であると彼は語っている。

倫理を根幹に据えた行動、あるいは選択は、理性によって自らに対して与えられた「義務」による行動ともいえるのではないか。そして、第一段階の「美的実存」において欲望を実現し続けることが不可能であるということに気付くのと同時に、「論理的実存」段階においては倫理的な自己ないしは行動と選択を実現するにつれて自己自身の求める究極の倫理に至ることは自分には不可能だということに気付ける。

その状態に至り、実存主義における第三段階へと昇華するのである。

 最終段階であり3階層目に位置するこれは「宗教的実存」と呼ばれているものである。以上の段階では、主体性を欲望や倫理に求めてきたが、この段階では自身の行動の理由を自身や雑多の外的要因でなく、その両方でなく誰にも責任を追及できなくなる神に求めるようになるのである。自らを、神に対して妄信的にまで信仰し、崇拝することによって、以上の段階以上の完全な、また絶対的な充実感が得られるというものだ。

以上が、キルケゴールの語る実存の正体について自己解釈したものである。

 

 さて、ここからは3階層目に位置した「宗教的実存」から宗教について触れていこうと思う。三大宗教を例に「その宗教の語る自己」とは一体何なのかを考えていこうと思う。

 まずはキリスト教から例に挙げていこう。キリスト教の「自己」といえば真っ先に「自己犠牲の精神」が頭に浮かぶ人も多いのではないか。もちろん私もその1人だ。

キリスト教系の中高に通っていた友人に話を聞いてみた。「キリスト教では自己はどう説いているのか。」私の問いに彼はこう答えた。「キリスト教を信奉する事は真理を見出したと同義だから自己は安定してるんじゃない?救済を望みそして待つだけとか」と。なるほどなと思った。

もしかしたら私が今調べ、探求しているこの「宗教の語る自己」についてがこの一言ですべて説明ついたのではないか。

“自己形成における宗教の意義”という奈良大学の田井康雄先生の昭和58年次の論文から引用するが、

3.自己形成と宗教の関係より1行目から「シュライエルマッハーによると、宗教は与えられるものではなく、自ら生活していくうちに現れるものである。それゆえに、「真の教会は行為(Tat)」」の中に常に存在している」といえるのである。」という一文から読み取れるのは前述の友人の一言とまったく同じニュアンスなのだ。

「宗教で真理を求めるのは正しいとはいえず、宗教を愛すること自体がもう既に真理を獲得できている証拠なのではないだろうか」というのが以上の内容を踏まえての私自身の結論である。

 

 

結論として私は、「宗教」と「主体を持つ人間」は表裏一体のものではないかと考えた。

これは国家、人種、収入などを問わずほぼすべての人間に当てはまるのではないであろうか。(無神論者・無宗教者は例外とする)

しかしそうなると無神論者・無宗教者が自己を形成するにはどういった過程で実存の証明を描くのかといったところは非常に難しく興味深いが、今回の題は宗教的主体論であり、題から逸れるため、ここで了とする。

 

 

 

 

鵐 2015.01.19